‘06 12月4日
離陸
ケンタッキーを出たとたんシカゴ、ニューヨークでのドタバタ劇。帰国を前にしての、前夜はなかなか眠れない。最後の最後にどんでん返しを食らい、飛行機に置き去りされるようなことだけは避けたい。
ところが、ケンタッキーに時計代わりにしていた携帯電話を置き忘れてしまったので時間が分からない。そればかりでなく、目覚ましのセットが出来ない。宿泊先のホテルには、時計がなく、テレビに映り出されている時刻は全くのでたらめ。
フロントに依頼したモーニングコールは、朝6時30分。
しかし、それさえも信用できない。先日、スエーデンからの女性客が部屋からフロントに電話をしようとしたところ、電話が故障していて繋がらなかったということを聞いているからである。
もうこうなったら、寝ないで起きているほうが得策かも知れない。
B級のスリラー映画を見たり、消したりしながら6時30分を迎える。
幸い、モーニングコールはあった。
チェックアウトをすませ、外でタクシーを拾う。
ドライバーはハイチからやって来た陽気な52才。25年前にニューヨークに来て、この街が好きでしょうがないという。隣人にいい人がたくさんいるそうだ。
ハイチのことを色々聞いてみた。ハイチをまずハイチと発音しない。フランス領だったためフランス語読み。Hを発音しないためアイチと聞こえる。
自国の言葉はあるが、フランス語が公用語。学校ではスペイン語を習い、現在では英語教育が盛んであるという。
また5年程前、日本政府がハイチに多額の援助金を送ったため、ハイチの人々は日本が大好きだそうだ。この様な情報がもっと日本に流れてくればよいのだが、、、
また彼は、6年前に交通事故に遭い、6時間昏睡状態が続き奇跡的に助かった。それからは仕事が楽しくて仕方がないとのこと。それぞれの人々に、様々なドラマがあることを改めて思い知る。
タクシーはJFケネデイー空港へ8時前に着く。44,9ドル。50ドルと手持ちの小銭をあるだけ手渡す。
厳しい検問を終えたのが8時30分ころ、出発は11時25分。3時間もある。
3ヶ月前の出国時に感じた高揚感は全くなく、地に足が着いていない疲労感がある。漂っているような状態。考えてみれば、ほとんど寝ていないのだから当然といえば当然。
しかも、帰国後待ち受けている現実をまだ認めたくない気持と、帰国後に感じる夢のようなケンタッキー生活をすでに感じている現実が交錯し、より以上に浮遊感が漂う。
そのまま漂い、機内に乗り込む。日本語の機内放送に驚き、隣りの席に日本人女性が座るともう心は日本に向いていた。
エンジンのけたたましい振動音に身体が揺すられ始めると、お世話になった人々の顔と名前が次々と浮かび上がってくる。
ジュリー、久保田成子さん、館長デイブ、ラルフ、ダテイ、レン、デヴィ、ジーナ、マイク、カニー、ロイ、、、、、 小刻みになっていく振動に、シューというエンジン音が重なり吸い込まれるように離陸が始まる。
ゴーという大きな音と共に舞い上がり、窓の外の建物が小さくなっていく。
ケンタッキーの人々の顔と様子が再び思い出され、私は心の中で思いきって両手を振った。千切れるほど思い切って手を振った。
ありがとう、、、、、、みんな本当にありがとう! 完
12月3日の日記
‘06 12月3日
彼らこそ縄文人
クリスマスの買い物シーズンで満室になっていないホテル。しかも、1泊140ドルでニューヨークにしては安い。それにはそれなりの理由はあるはず。
私の宿泊した部屋は6階の606号室。
石造りの建物は立派ではあるが、様々の箇所が傷んでいる。というかボロボロ。
また、部屋に入った瞬間の匂いには閉口した。汗くさい。どうやら、風呂場のカーテンが湿気のため生乾きになり、強烈な匂いを発しているようだ。
それでも、風呂場のドアをしめ、窓を開けると大丈夫。また、ノミ、シラミがいなかっただけでも幸いである。
ケンタッキーでの生活を思い起こし、改めて、Artist in Residenceの生活が特別であったことを痛感する。
早く頭を切り替えないと日本の現実についていけなくなりそうだ。ニューヨーク滞在はそのための準備期間なのかもしれない。
朝、10時久保田成子さんに電話をし、12時にソーホーの自宅を訪ねることになった。
20数年前の倉庫とギャラリーの街ソーホーではなく、観光地となっていた。観光バスが何台も走っている。
6年前に一度ソーホーを訪ねたことがあったが、そのときよりもレストラン、ブテイック等ファッショナブルな建物が増えている。
12時に久保田さんの自宅ベルを鳴らす。エレベーターから下りてこられた久保田さんは、昔と変わらずツヤのあるお顔をされていた。1998年ナムジュン・パイクさんの京都賞受賞にお会いした時以来8年ぶりである。
また、自宅のロフトをうかがうのは1991年に、新妻を紹介した時以来、15年ぶり。部屋の壁が白くて随分明るくなっていた。
ロフトの隅にはパイクさんの納骨壇があった。小さくなられたパイクさんに手を触れ、お線香を上げさせて戴いた。
“ナムジュン、佐伯君が来てくれたわよ。”と久保田さんが優しくパイクさんに囁かれると、思わずこみ上げてくるものを感じる。
“パイクさん、私のようなものにいつも優しくして戴き本当に有り難うございました。”と心を込めて合掌。
明るい日差しのなかで、テーブルを囲みパイクさんの話に花が咲き始める。
現在、韓国のソウルでパイクさんを記念した国立美術館が建設中。数年後には完成するそうである。
またパイクさんのアシスタントをしていた人々の数奇な人生を伺うことが出来た。
ニューヨークでしかも芸術家として生活をされている久保田さんからはオーラが放たれていた。
久保田さんはアメリカ国籍を修得したため、もう日本人ではない。それだけの覚悟で生きてこられたのだ。
私があのままニューヨークに残っていれば、どうなっていただろう?とても生き残れなかった。私にはそれだけの覚悟がなかったからである。早い時期、日本に帰り良かったとつくづく思う。
その後、パイクさんご夫妻行きつけのアメリカン・イタリアンレストランでご馳走になった。レストランに入ると
“ミセスパイク、いらっしゃいませ。お席にどうぞ。”と感じの良いウエイターが待ちかまえていた。
入り口から一番近い、ゆったりとした席が、パイクさんご夫妻の指定席。
今日は私がパイクさんの代わりである。何という贅沢だろう!
このレストランは、パイクさんが毎日のように通われていたため、壁にはパイクさんの写真と切られたネクタイ(観客のネクタイを切るパフォーマンス時のもの)が額に入り飾ってあった。
これからも、パイクさん伝説がこのレストランでも語り継がれていくに違いない。
上品なパンプキンスープとチキンサラダそれにデザートは、甘さをひかえたチーズケーキ。さすがに、洗練されたニューヨークの味であった。
食事が終わる頃には、空席を待つ人々が外まで列を作っていた。
久保田さんには感謝の意を精一杯お伝えし、お別れした。
別れ際、“今度、娘さんを連れておいでよ!”と優しいお言葉を戴いた。有り難うございます。これを、新たな目標にしようと思う。
20数年前を思い出しながらブラブラとソーホーを歩いていた。気がつくともう4時を過ぎており、久保田さんに勧められたニューヨーク近代美術館(MOMA)にはもう行けない。MOMAはリニューアルされ注目されているのだが、、、
日本レストランで夕食を済ませ、地下鉄に乗る。身長160cm〜165cm位の小柄な中南米人が3人乗り込んできた。ギターを片手に民族音楽を演奏し、お布施を求める陽気な人々。
彼らの顔、体型をまじまじと見つめてやっと分かった。
*彼らこそ縄文人!
福井県三方にある縄文博物館で見た縄文人のデッサンそっくりであった。顔は彫りが深く、胴長短足短腕。彼らの祖先マヤ、インカの文明を理解する事は日本の基調文明である縄文文明を知ることに繋がると直感できた。
どうやら、3ヶ月に渡る今回の旅で私が求めていたのは、この“気付き”だったようだ。
それを与えてくださったサムシンググレートに心より感謝する。ありがとうございます!
* 付記
北米のネイテイブ・アメリカンや中南米のインデイオの人々は、われわれ日本人と同じモンゴロイドである。氷河時代に北米大陸はローレンタイド氷床とよばれる巨大な氷河に覆われていた。しかし、一万四000年前ごろのアレレードとよばれる温暖期に、この巨大な氷河の一部が融け、南北の通路ができた。ネイテイブ・アメリカンやインデイオの人々の祖先は、この氷と氷の間の細長い通路を通って、アラスカから南米にまで一気に拡大した人々なのである。それゆえ、ネイテイブ・アメリカンやインデイオの人々の祖先は、縄文人と同じ古モンゴロイドとよばれる(赤澤威編「アフリカからの旅立ち」<モンゴロイドの地球>1,東京大学出版会)。
彼らこそ縄文人
クリスマスの買い物シーズンで満室になっていないホテル。しかも、1泊140ドルでニューヨークにしては安い。それにはそれなりの理由はあるはず。
私の宿泊した部屋は6階の606号室。
石造りの建物は立派ではあるが、様々の箇所が傷んでいる。というかボロボロ。
また、部屋に入った瞬間の匂いには閉口した。汗くさい。どうやら、風呂場のカーテンが湿気のため生乾きになり、強烈な匂いを発しているようだ。
それでも、風呂場のドアをしめ、窓を開けると大丈夫。また、ノミ、シラミがいなかっただけでも幸いである。
ケンタッキーでの生活を思い起こし、改めて、Artist in Residenceの生活が特別であったことを痛感する。
早く頭を切り替えないと日本の現実についていけなくなりそうだ。ニューヨーク滞在はそのための準備期間なのかもしれない。
朝、10時久保田成子さんに電話をし、12時にソーホーの自宅を訪ねることになった。
20数年前の倉庫とギャラリーの街ソーホーではなく、観光地となっていた。観光バスが何台も走っている。
6年前に一度ソーホーを訪ねたことがあったが、そのときよりもレストラン、ブテイック等ファッショナブルな建物が増えている。
12時に久保田さんの自宅ベルを鳴らす。エレベーターから下りてこられた久保田さんは、昔と変わらずツヤのあるお顔をされていた。1998年ナムジュン・パイクさんの京都賞受賞にお会いした時以来8年ぶりである。
また、自宅のロフトをうかがうのは1991年に、新妻を紹介した時以来、15年ぶり。部屋の壁が白くて随分明るくなっていた。
ロフトの隅にはパイクさんの納骨壇があった。小さくなられたパイクさんに手を触れ、お線香を上げさせて戴いた。
“ナムジュン、佐伯君が来てくれたわよ。”と久保田さんが優しくパイクさんに囁かれると、思わずこみ上げてくるものを感じる。
“パイクさん、私のようなものにいつも優しくして戴き本当に有り難うございました。”と心を込めて合掌。
明るい日差しのなかで、テーブルを囲みパイクさんの話に花が咲き始める。
現在、韓国のソウルでパイクさんを記念した国立美術館が建設中。数年後には完成するそうである。
またパイクさんのアシスタントをしていた人々の数奇な人生を伺うことが出来た。
ニューヨークでしかも芸術家として生活をされている久保田さんからはオーラが放たれていた。
久保田さんはアメリカ国籍を修得したため、もう日本人ではない。それだけの覚悟で生きてこられたのだ。
私があのままニューヨークに残っていれば、どうなっていただろう?とても生き残れなかった。私にはそれだけの覚悟がなかったからである。早い時期、日本に帰り良かったとつくづく思う。
その後、パイクさんご夫妻行きつけのアメリカン・イタリアンレストランでご馳走になった。レストランに入ると
“ミセスパイク、いらっしゃいませ。お席にどうぞ。”と感じの良いウエイターが待ちかまえていた。
入り口から一番近い、ゆったりとした席が、パイクさんご夫妻の指定席。
今日は私がパイクさんの代わりである。何という贅沢だろう!
このレストランは、パイクさんが毎日のように通われていたため、壁にはパイクさんの写真と切られたネクタイ(観客のネクタイを切るパフォーマンス時のもの)が額に入り飾ってあった。
これからも、パイクさん伝説がこのレストランでも語り継がれていくに違いない。
上品なパンプキンスープとチキンサラダそれにデザートは、甘さをひかえたチーズケーキ。さすがに、洗練されたニューヨークの味であった。
食事が終わる頃には、空席を待つ人々が外まで列を作っていた。
久保田さんには感謝の意を精一杯お伝えし、お別れした。
別れ際、“今度、娘さんを連れておいでよ!”と優しいお言葉を戴いた。有り難うございます。これを、新たな目標にしようと思う。
20数年前を思い出しながらブラブラとソーホーを歩いていた。気がつくともう4時を過ぎており、久保田さんに勧められたニューヨーク近代美術館(MOMA)にはもう行けない。MOMAはリニューアルされ注目されているのだが、、、
日本レストランで夕食を済ませ、地下鉄に乗る。身長160cm〜165cm位の小柄な中南米人が3人乗り込んできた。ギターを片手に民族音楽を演奏し、お布施を求める陽気な人々。
彼らの顔、体型をまじまじと見つめてやっと分かった。
*彼らこそ縄文人!
福井県三方にある縄文博物館で見た縄文人のデッサンそっくりであった。顔は彫りが深く、胴長短足短腕。彼らの祖先マヤ、インカの文明を理解する事は日本の基調文明である縄文文明を知ることに繋がると直感できた。
どうやら、3ヶ月に渡る今回の旅で私が求めていたのは、この“気付き”だったようだ。
それを与えてくださったサムシンググレートに心より感謝する。ありがとうございます!
* 付記
北米のネイテイブ・アメリカンや中南米のインデイオの人々は、われわれ日本人と同じモンゴロイドである。氷河時代に北米大陸はローレンタイド氷床とよばれる巨大な氷河に覆われていた。しかし、一万四000年前ごろのアレレードとよばれる温暖期に、この巨大な氷河の一部が融け、南北の通路ができた。ネイテイブ・アメリカンやインデイオの人々の祖先は、この氷と氷の間の細長い通路を通って、アラスカから南米にまで一気に拡大した人々なのである。それゆえ、ネイテイブ・アメリカンやインデイオの人々の祖先は、縄文人と同じ古モンゴロイドとよばれる(赤澤威編「アフリカからの旅立ち」<モンゴロイドの地球>1,東京大学出版会)。
2007年01月16日
12月2日の日記
‘06 12月2日
自分の身は自分で守る
昨夜の安ワインのせいで、久々に二日酔い。寝癖で逆立った長髪と寝起き眼(まなこ)をあざ笑うように、明るい光が部屋にふりそそいでいる。
今日は快晴。ニューヨークに無事着けそうである。
テレビをつけると朝の8時から、10チャンネルのデスカヴァー(discover)という人気番組をやっていた。パールハーバーでの米軍、日本軍の様子を実写フィルムやコンピューターグラフィックを使い説明している。
しかし、番組ではアメリカ政府が日本の作戦を知っていたとは言っていない。奇襲であった事を強調するように、あるパイロットは、パジャマ姿で飛行機に乗り込んだと説明している。もちろんパイロットにとっては全くの奇襲攻撃。
しかしアメリカ政府にとっては、反日感情を煽るための軍事作戦であり、シナリオ通りの出来事であった。イラク戦争、9,11事件も全てアメリカ政府のシナリオ。
このシナリオの延長上にマスメデイアを使ったこのような番組が存在している。それにしても、土曜日の朝からこのような番組放映があること自体、非常にきな臭い。
私がバーンハイムにいる時、ほぼ毎日聞こえる音があった。
1つは野鳥のさえずり、もう1つは近くの演習場での砲撃音。これは、土日に関係なく、時には、真夜中の0時まで続くこともあった。
砲撃弾の種類にもよるが、ドーンという振動を伴うこともしばしばあった。アメリカ国家予算の42%が軍事費というのもうなずける。
大東亜戦争から60年ほどたち、そのうちの47年間を戦争に費やしているアメリカ。
すべての国を自国の土俵に呼び込み、自国のルールを押しつけ、弱いもの相手に相撲を取るアメリカ。こんな不条理がいつまでも続くのであろうか?
政治に疎い私には、今後の動向などかいもく見当がつかないが、アメリカの傲慢さだけは感じ取れる。そして、傲慢な態度を続けていれば、いつかしっぺ返しが来ることだけは分かる。
バーンハイムで良識ある人々と接して来ただけに、二極化し大いなる矛盾を抱えていくアメリカにやるせない思いが募っていく、、、
しかし、もやもや気分もシカゴの寒風に当たると一遍に吹き飛び、
ホテル専属のバスで軽快に空港へと向かう。空港に着き、予定通り午後3時にニューヨーク行きが離陸する事を確認する。3時間程待機し、定刻3時に離陸。
快晴の空が徐々に紺色になっていき、真っ赤な夕日が地平線へとゆっくり沈む。空は漆黒に染まり、満月が浮かんでいる。
しばらくすると眼下にオレンジ色の宝石をちりばめた別世界が見えて来る。ニューヨークだ!
この夜景を見るだけでこちらに来た価値がある。夜景というのは大西洋、マンハッタン島、ロングアイランドという大自然があるからこそ人工の光が美しく輝いて見えるのだということがよく分かった。
漆黒の闇に浮かぶまん丸い月と火の粉を散らしたようなニューヨークの夜景。
俳人ならば次々と句が浮かび上がって来るであろうが、残念ながら私の頭には一つも言葉が出てこない。
ただこの夜景の美しさを脳裏にしっかりと焼き付けておこう!
定刻に到着。6時前には、機内に残しているスーツケースとマイクからのプレゼンのバットを回転式荷物手渡し場で待つ。
スーツケースはすぐに見つかるが、バットがいくら待っても出てこない。40分程待ち、結局見つからなかった。
サービスセンターに行き、紛失届けの手続きをしなければならない。ところが、センターは長蛇の列。これほどトラブルに巻き込まれている人が多いとは、思わなかった。
しかし、しばらく職員の対応を見ていると、長蛇の列の意味が分かってきた。職員の対応が日本に比べると、敏速ではない。マイペースを決め込み、難しいコンピューター入力になると逃げ出す職員までいた!
しかし、ここはニューヨークどんな人がいてもおかしくない。それより、職員の対応に文句を言わずおとなしく列を作っている人々に感心した。
やっとのことで、空港を抜け出すことが出来た。
久しぶりのニューヨークに心は弾んでいるのだが、どうも身体が付いていけない。
そもそもおおきなスーツケースや荷物を持ってニューヨークを歩くこと自体、もの凄い違和感がある。
私が26,7才の頃は、この街を手ぶらで闊歩していたものだ。ニューヨーカーとして!
ところが、今は典型的なお上りさん。
20数年前には、地下鉄の切符(トークン)が75セントでコインの形をしていた。しかし今では、10ドルも出してカードを買い、一回の乗車で2ドルも懸かる。
もう私の知っているニューヨークはそこには無い。
そんなことは、分かっているはずなのだが、、、なかなか認めたく無い頑なおじさんがそこにいた。
ただ、乗客は20数年前と感じが変わっていない。変わったのは私だけ!
地下鉄はマンハッタンのアップタウンに向かっていった。
私の予約しているコンチネンタル ホステルは、330 W 95 St というセントラルパークの西側に位置している。
地下鉄を降り、スーツケースを引きずりながらホステルを探した。何とか見つけだし受け付けまで向かう。ここは、ユースホステルのようなところで若者の客が多い。
私は名前を名乗り、今日と明日の予約した部屋を尋ねた。
しかし、二人のスペイン系男性が、予約リストに載ってないと素っ気なく言う。理由はどうであれ、昨日のキャンセルがあった時点で、もう私の予約は受け付けていないのだそうだ。
昨日、travel@expedia.comで予約したのは一体何だったのだ!
この時期のホテルはほとんど満室。路上でさまよう惨めな私の姿を想像していた。このホステルの待合い室でもいいから、仮眠をとる場所を確保しなくてはならない。
しかしその前にtravel@expedia.comに電話をしてこのひどい状況を伝える必要がある。
電話に出たのは若い女性。私の置かれた状態を細かく、感情を抑えて伝えた。
彼女もさすがに驚いた様子で、近くのホテルを予約する手はずを整える。215 W 94St にあるDAYS INNを予約してくれた。ここならば、1ブロック歩くだけで非常に近い。
不幸中の幸いと思うしかない。
私は、真冬にしては暖かいニューヨークを小走りに歩いた。
黄色い大きなDAYS INNという看板が目に入る。なんとかなる!ロビーに飛びこみ、予約した私の名前を伝える。ところが、受付の男性が予約を受けてないと申し訳なさそうに話す。
これには、頭に来た!再びtravel@expedia.comに電話。
“あんたが予約したというこのホテルに今いる。しかし、予約ができてない!一体どうなっているの?”すると、“すみません、予約したはずなのですが、、、”
受付の男性にもう一度確認をしてもらうがやはりしていない。そこで一旦電話を切る。
受付の男性は、剃り上げた頭とは対照的にラテン系の優しい顔をしている。
彼が、“部屋は空いているので、予約はできます。ただ、ダブルブッキング(二重支払い)になってしまう心配がありますので、代理店を通さないように確認を入れてください。”という親切な回答を与えてくれた。
travel@expedia.comに電話を入れ、“あなたの会社を通さないで、私が予約をします。そして、絶対に支払いの要求をしないで下さい!”と伝える。1泊140ドルとやや高いが、やっとニューヨークでの宿を確保。時刻は午前0時になろうとしていた。
それにしても、コンピューターでの予約には落とし穴が多く、当てにならない。
必ず直接ホテルのフロントと連絡を取りあえる状況にしておかなければならない。こんな当たり前のことが、やっと分かった。
“自分の身は自分で守る”を実感できたこの旅に感謝しよう!
自分の身は自分で守る
昨夜の安ワインのせいで、久々に二日酔い。寝癖で逆立った長髪と寝起き眼(まなこ)をあざ笑うように、明るい光が部屋にふりそそいでいる。
今日は快晴。ニューヨークに無事着けそうである。
テレビをつけると朝の8時から、10チャンネルのデスカヴァー(discover)という人気番組をやっていた。パールハーバーでの米軍、日本軍の様子を実写フィルムやコンピューターグラフィックを使い説明している。
しかし、番組ではアメリカ政府が日本の作戦を知っていたとは言っていない。奇襲であった事を強調するように、あるパイロットは、パジャマ姿で飛行機に乗り込んだと説明している。もちろんパイロットにとっては全くの奇襲攻撃。
しかしアメリカ政府にとっては、反日感情を煽るための軍事作戦であり、シナリオ通りの出来事であった。イラク戦争、9,11事件も全てアメリカ政府のシナリオ。
このシナリオの延長上にマスメデイアを使ったこのような番組が存在している。それにしても、土曜日の朝からこのような番組放映があること自体、非常にきな臭い。
私がバーンハイムにいる時、ほぼ毎日聞こえる音があった。
1つは野鳥のさえずり、もう1つは近くの演習場での砲撃音。これは、土日に関係なく、時には、真夜中の0時まで続くこともあった。
砲撃弾の種類にもよるが、ドーンという振動を伴うこともしばしばあった。アメリカ国家予算の42%が軍事費というのもうなずける。
大東亜戦争から60年ほどたち、そのうちの47年間を戦争に費やしているアメリカ。
すべての国を自国の土俵に呼び込み、自国のルールを押しつけ、弱いもの相手に相撲を取るアメリカ。こんな不条理がいつまでも続くのであろうか?
政治に疎い私には、今後の動向などかいもく見当がつかないが、アメリカの傲慢さだけは感じ取れる。そして、傲慢な態度を続けていれば、いつかしっぺ返しが来ることだけは分かる。
バーンハイムで良識ある人々と接して来ただけに、二極化し大いなる矛盾を抱えていくアメリカにやるせない思いが募っていく、、、
しかし、もやもや気分もシカゴの寒風に当たると一遍に吹き飛び、
ホテル専属のバスで軽快に空港へと向かう。空港に着き、予定通り午後3時にニューヨーク行きが離陸する事を確認する。3時間程待機し、定刻3時に離陸。
快晴の空が徐々に紺色になっていき、真っ赤な夕日が地平線へとゆっくり沈む。空は漆黒に染まり、満月が浮かんでいる。
しばらくすると眼下にオレンジ色の宝石をちりばめた別世界が見えて来る。ニューヨークだ!
この夜景を見るだけでこちらに来た価値がある。夜景というのは大西洋、マンハッタン島、ロングアイランドという大自然があるからこそ人工の光が美しく輝いて見えるのだということがよく分かった。
漆黒の闇に浮かぶまん丸い月と火の粉を散らしたようなニューヨークの夜景。
俳人ならば次々と句が浮かび上がって来るであろうが、残念ながら私の頭には一つも言葉が出てこない。
ただこの夜景の美しさを脳裏にしっかりと焼き付けておこう!
定刻に到着。6時前には、機内に残しているスーツケースとマイクからのプレゼンのバットを回転式荷物手渡し場で待つ。
スーツケースはすぐに見つかるが、バットがいくら待っても出てこない。40分程待ち、結局見つからなかった。
サービスセンターに行き、紛失届けの手続きをしなければならない。ところが、センターは長蛇の列。これほどトラブルに巻き込まれている人が多いとは、思わなかった。
しかし、しばらく職員の対応を見ていると、長蛇の列の意味が分かってきた。職員の対応が日本に比べると、敏速ではない。マイペースを決め込み、難しいコンピューター入力になると逃げ出す職員までいた!
しかし、ここはニューヨークどんな人がいてもおかしくない。それより、職員の対応に文句を言わずおとなしく列を作っている人々に感心した。
やっとのことで、空港を抜け出すことが出来た。
久しぶりのニューヨークに心は弾んでいるのだが、どうも身体が付いていけない。
そもそもおおきなスーツケースや荷物を持ってニューヨークを歩くこと自体、もの凄い違和感がある。
私が26,7才の頃は、この街を手ぶらで闊歩していたものだ。ニューヨーカーとして!
ところが、今は典型的なお上りさん。
20数年前には、地下鉄の切符(トークン)が75セントでコインの形をしていた。しかし今では、10ドルも出してカードを買い、一回の乗車で2ドルも懸かる。
もう私の知っているニューヨークはそこには無い。
そんなことは、分かっているはずなのだが、、、なかなか認めたく無い頑なおじさんがそこにいた。
ただ、乗客は20数年前と感じが変わっていない。変わったのは私だけ!
地下鉄はマンハッタンのアップタウンに向かっていった。
私の予約しているコンチネンタル ホステルは、330 W 95 St というセントラルパークの西側に位置している。
地下鉄を降り、スーツケースを引きずりながらホステルを探した。何とか見つけだし受け付けまで向かう。ここは、ユースホステルのようなところで若者の客が多い。
私は名前を名乗り、今日と明日の予約した部屋を尋ねた。
しかし、二人のスペイン系男性が、予約リストに載ってないと素っ気なく言う。理由はどうであれ、昨日のキャンセルがあった時点で、もう私の予約は受け付けていないのだそうだ。
昨日、travel@expedia.comで予約したのは一体何だったのだ!
この時期のホテルはほとんど満室。路上でさまよう惨めな私の姿を想像していた。このホステルの待合い室でもいいから、仮眠をとる場所を確保しなくてはならない。
しかしその前にtravel@expedia.comに電話をしてこのひどい状況を伝える必要がある。
電話に出たのは若い女性。私の置かれた状態を細かく、感情を抑えて伝えた。
彼女もさすがに驚いた様子で、近くのホテルを予約する手はずを整える。215 W 94St にあるDAYS INNを予約してくれた。ここならば、1ブロック歩くだけで非常に近い。
不幸中の幸いと思うしかない。
私は、真冬にしては暖かいニューヨークを小走りに歩いた。
黄色い大きなDAYS INNという看板が目に入る。なんとかなる!ロビーに飛びこみ、予約した私の名前を伝える。ところが、受付の男性が予約を受けてないと申し訳なさそうに話す。
これには、頭に来た!再びtravel@expedia.comに電話。
“あんたが予約したというこのホテルに今いる。しかし、予約ができてない!一体どうなっているの?”すると、“すみません、予約したはずなのですが、、、”
受付の男性にもう一度確認をしてもらうがやはりしていない。そこで一旦電話を切る。
受付の男性は、剃り上げた頭とは対照的にラテン系の優しい顔をしている。
彼が、“部屋は空いているので、予約はできます。ただ、ダブルブッキング(二重支払い)になってしまう心配がありますので、代理店を通さないように確認を入れてください。”という親切な回答を与えてくれた。
travel@expedia.comに電話を入れ、“あなたの会社を通さないで、私が予約をします。そして、絶対に支払いの要求をしないで下さい!”と伝える。1泊140ドルとやや高いが、やっとニューヨークでの宿を確保。時刻は午前0時になろうとしていた。
それにしても、コンピューターでの予約には落とし穴が多く、当てにならない。
必ず直接ホテルのフロントと連絡を取りあえる状況にしておかなければならない。こんな当たり前のことが、やっと分かった。
“自分の身は自分で守る”を実感できたこの旅に感謝しよう!
12月1日の日記
‘06 12月1日
世捨て人
早朝7時にジュリーより電話。
シカゴが大雪でかなりの飛行機が運航キャンセルになっているとのこと。この調子だとルイビルからシカゴまでの飛行機も飛ばない可能性がある。
私の滞在している部屋の隣りに、10人程泊まれる部屋がある。ここは、普段は研修センターとして使用され、テレビもある。
そこで、合い鍵を使いセンターに入り、テレビでシカゴの様子を見ることにした。降っている。30センチくらいの積雪が見込まれているそうだ。
明日の出発を覚悟した。ところが、予定通り8時15分にカニーが迎えにくる。
“大丈夫、キャンセルになってないわ。私が空港に連絡し確かめたから!”とのこと。
私のフライトは午前11時20分。最低でも、9時には空港に着いていなくてはならない。急いで、中型のスーツケース、ポーチ、リュックと手提げ袋を車に入れ、空港へ向かう。
幸い、こちらでは雪が降っていない。厳しい検問を終え、カニーに手を振ってわかれを告げる。搭乗口付近で待機。
しかし、午前11時20分に離陸するはずの飛行機が、午後2時30分に変更されていた。しかも、午後2時に離陸できるかどうか最終結果が分かるとのこと。
天候には敵わない、もう余計なことを考えても仕方がない。
それにしても、最後の最後にこのような展開になるとは、、、、数日前にナムジュン・パイクさんの奥さんである久保田成子さんと連絡を取ったとき、“シカゴ経由ならば、遅れるわよ!”とおっしゃっていたのが現実のものとなってきた。
忘れ物をよくする私は、常に荷物の確認をしなくてはならない。スーツケースは搭乗手続き時に預けたし、ポーチ、リュックと手提げ袋は持っている。大丈夫のはずだが、、、あれ!携帯電話とカメラが見あたらない。
いくら探しても無い!またやってしまった。家に置き忘れたようだ。
しかし、ものは考えよう。パスポート、旅券、お金は持っているのだから良しとしよう。
あとは、午後2時まで搭乗口付近をただブラブラと歩くだけ。
ところが、12時30分頃に突然私の搭乗するAA4287便が離陸出来るというアナウンスが流される。
私は耳を疑ったがどうも事実らしい。同じ便に乗る客が次々と搭乗していく。私も搭乗券をしっかり見せ確認したうえで機内へ向かった。
突然の変更に乗客全員が対応できるのだろうかと、少々心配になったが、どうやら全員乗り込んだようである。
午後1時に離陸。
午後2時30分頃シカゴに到着。ところが、シカゴからニューヨークまでの便が全て欠航となっていた!
20年位前にも1度このような事があり、ホテルで1泊したことがあった。その時は全額航空会社が支払ってくれたが、今回はアメリカン航空が半額あとは私が支払わなくてはならない。
それだけでなく、今日予約していたニューヨークのホステルをキャンセルし、明日と明後日の2日間に変更しなくてはならない。
まずは公衆電話を探す。携帯電話が普及しているため少ない。その上、国際空港にも拘わらず遠距離通話が出来ない電話がほとんどである。
空港の隅々を歩き回ってやっと見つける事が出来た。遠距離通話可能の電話は黄色いラインのデザインがしてある。これは覚えておいたほうがいい。
私が予約したホステルは1泊70ドルの安宿。
クリスマス用の買い物でニューヨークの人出が一番多い時にあたるため、一般のホテルは途轍もなく高い。1泊、700ドル位のホテルがメジロ押し。
とにかくやっと見つけた安宿、なんとか連絡を取らなくてはならない。
このホステルはバーンハイムの館長秘書・デビーのコンピューターから予約をし、3日間宿泊出来るようになっていた。travel@expedia.comという会社を介しているため、直接ホステルに電話しても、1−800−664−6835に電話をするようにとそっけない返事。
ところが、そこに電話をしても、録音された機械の声が場違いな事を喋り始める。
こうなったら、バーンハイムのデビーに頼むしかない。デビーに事情を告げ10分後に再び私から彼女に電話し、確認することにした。
再び、デビーに電話をすると、先方が間違った電話番号を教えていたとの事。
正確には1−800−397−3342であった。そこで、今度は私が電話をすることにした。
取り合った男性はスペイン語訛りのいい加減な英語で対応してくる。少々気にはなったが、今日のキャンセルと明日、明後日の予約が取れた事を確認し、電話を切った。
今度は、ニューヨークの久保田成子さんに連絡し、ニューヨーク到着が明日に変更となったことを告げた。
その時、久保田さんから少々高くてもホテルで宿泊する事を勧められた。
実はシカゴでは半額の69ドル(マリオットホテル)を出すくらいなら空港で野宿をしようと思っていたのである。しかし、野宿出来るほど若くはない。こんなところで、風邪でもひき体調を崩すことほど馬鹿げたことはない。久保田さんのおっしゃる通りホテルで一泊することにした。
ホテル専属のバスを待ち、マリオットホテルへ直行。外は肌を刺すように寒く、30センチ程の雪に覆われていた。
ホテルに着くと早速風呂に入り、身体を暖める。簡単な食事を済ませ1階にあるバーに立ち寄った。
ハーフボトルのワイン(安い12ドルだけあり不味い)とハイネッケンを注文。
スポーツバーのため、映像がそこかしこに流れている。テレビの無い生活に慣れていた私には、思考回路を切断されているのがよく分かる。目の刺激が顔面を刺激し、マヒさせ頭が空っぽになるような感覚。
これは、空港で足止めを食らってなすすべを無くしている感覚によく似ている。
空港の場合不慣れな現実にさらされ、行き交う大勢の人々の刺激に身体がさらされ、思考を楽しむ余裕が全くなく、頭が空っぽになっているだけであったが、スポーツバーの場合は、私があえて身を置いた場所。ゆっくり雰囲気を楽しむはずだったのだが、、、、どうやら3ヶ月の軟禁状態は私を全くの世捨て人にしていったようだ。
明日はどのような“世”が待ち受けているのだろうか、、、少し心配である。
世捨て人
早朝7時にジュリーより電話。
シカゴが大雪でかなりの飛行機が運航キャンセルになっているとのこと。この調子だとルイビルからシカゴまでの飛行機も飛ばない可能性がある。
私の滞在している部屋の隣りに、10人程泊まれる部屋がある。ここは、普段は研修センターとして使用され、テレビもある。
そこで、合い鍵を使いセンターに入り、テレビでシカゴの様子を見ることにした。降っている。30センチくらいの積雪が見込まれているそうだ。
明日の出発を覚悟した。ところが、予定通り8時15分にカニーが迎えにくる。
“大丈夫、キャンセルになってないわ。私が空港に連絡し確かめたから!”とのこと。
私のフライトは午前11時20分。最低でも、9時には空港に着いていなくてはならない。急いで、中型のスーツケース、ポーチ、リュックと手提げ袋を車に入れ、空港へ向かう。
幸い、こちらでは雪が降っていない。厳しい検問を終え、カニーに手を振ってわかれを告げる。搭乗口付近で待機。
しかし、午前11時20分に離陸するはずの飛行機が、午後2時30分に変更されていた。しかも、午後2時に離陸できるかどうか最終結果が分かるとのこと。
天候には敵わない、もう余計なことを考えても仕方がない。
それにしても、最後の最後にこのような展開になるとは、、、、数日前にナムジュン・パイクさんの奥さんである久保田成子さんと連絡を取ったとき、“シカゴ経由ならば、遅れるわよ!”とおっしゃっていたのが現実のものとなってきた。
忘れ物をよくする私は、常に荷物の確認をしなくてはならない。スーツケースは搭乗手続き時に預けたし、ポーチ、リュックと手提げ袋は持っている。大丈夫のはずだが、、、あれ!携帯電話とカメラが見あたらない。
いくら探しても無い!またやってしまった。家に置き忘れたようだ。
しかし、ものは考えよう。パスポート、旅券、お金は持っているのだから良しとしよう。
あとは、午後2時まで搭乗口付近をただブラブラと歩くだけ。
ところが、12時30分頃に突然私の搭乗するAA4287便が離陸出来るというアナウンスが流される。
私は耳を疑ったがどうも事実らしい。同じ便に乗る客が次々と搭乗していく。私も搭乗券をしっかり見せ確認したうえで機内へ向かった。
突然の変更に乗客全員が対応できるのだろうかと、少々心配になったが、どうやら全員乗り込んだようである。
午後1時に離陸。
午後2時30分頃シカゴに到着。ところが、シカゴからニューヨークまでの便が全て欠航となっていた!
20年位前にも1度このような事があり、ホテルで1泊したことがあった。その時は全額航空会社が支払ってくれたが、今回はアメリカン航空が半額あとは私が支払わなくてはならない。
それだけでなく、今日予約していたニューヨークのホステルをキャンセルし、明日と明後日の2日間に変更しなくてはならない。
まずは公衆電話を探す。携帯電話が普及しているため少ない。その上、国際空港にも拘わらず遠距離通話が出来ない電話がほとんどである。
空港の隅々を歩き回ってやっと見つける事が出来た。遠距離通話可能の電話は黄色いラインのデザインがしてある。これは覚えておいたほうがいい。
私が予約したホステルは1泊70ドルの安宿。
クリスマス用の買い物でニューヨークの人出が一番多い時にあたるため、一般のホテルは途轍もなく高い。1泊、700ドル位のホテルがメジロ押し。
とにかくやっと見つけた安宿、なんとか連絡を取らなくてはならない。
このホステルはバーンハイムの館長秘書・デビーのコンピューターから予約をし、3日間宿泊出来るようになっていた。travel@expedia.comという会社を介しているため、直接ホステルに電話しても、1−800−664−6835に電話をするようにとそっけない返事。
ところが、そこに電話をしても、録音された機械の声が場違いな事を喋り始める。
こうなったら、バーンハイムのデビーに頼むしかない。デビーに事情を告げ10分後に再び私から彼女に電話し、確認することにした。
再び、デビーに電話をすると、先方が間違った電話番号を教えていたとの事。
正確には1−800−397−3342であった。そこで、今度は私が電話をすることにした。
取り合った男性はスペイン語訛りのいい加減な英語で対応してくる。少々気にはなったが、今日のキャンセルと明日、明後日の予約が取れた事を確認し、電話を切った。
今度は、ニューヨークの久保田成子さんに連絡し、ニューヨーク到着が明日に変更となったことを告げた。
その時、久保田さんから少々高くてもホテルで宿泊する事を勧められた。
実はシカゴでは半額の69ドル(マリオットホテル)を出すくらいなら空港で野宿をしようと思っていたのである。しかし、野宿出来るほど若くはない。こんなところで、風邪でもひき体調を崩すことほど馬鹿げたことはない。久保田さんのおっしゃる通りホテルで一泊することにした。
ホテル専属のバスを待ち、マリオットホテルへ直行。外は肌を刺すように寒く、30センチ程の雪に覆われていた。
ホテルに着くと早速風呂に入り、身体を暖める。簡単な食事を済ませ1階にあるバーに立ち寄った。
ハーフボトルのワイン(安い12ドルだけあり不味い)とハイネッケンを注文。
スポーツバーのため、映像がそこかしこに流れている。テレビの無い生活に慣れていた私には、思考回路を切断されているのがよく分かる。目の刺激が顔面を刺激し、マヒさせ頭が空っぽになるような感覚。
これは、空港で足止めを食らってなすすべを無くしている感覚によく似ている。
空港の場合不慣れな現実にさらされ、行き交う大勢の人々の刺激に身体がさらされ、思考を楽しむ余裕が全くなく、頭が空っぽになっているだけであったが、スポーツバーの場合は、私があえて身を置いた場所。ゆっくり雰囲気を楽しむはずだったのだが、、、、どうやら3ヶ月の軟禁状態は私を全くの世捨て人にしていったようだ。
明日はどのような“世”が待ち受けているのだろうか、、、少し心配である。
11月30日の日記
‘06 11月30日
冬到来
今日一日で、この部屋ともお別れ。
“立つ鳥跡を濁さず”の思いで、掃除をしていると、あと2時間ほどで冬になり、夜には雪が降るという情報がラジオから流れてくる。
ケンタッキーには、ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)という公共放送が3局あり、クラッシック専門、現代音楽専門、それにニュース専門とそれぞれ分担された局で流されている。
私は、もっぱらクラッシックを聴いている。その中でクラシックチョイスという人気番組の女性案内役が、“残り2時間の穏やかさを楽しみましょう。”と笑いながらお喋りをしている。
とんでもない!私は、明日11時20分シカゴ経由でニューヨークに行く。
シカゴといえば、その寒さは,いわずと知れている。こまった! そんな折り、ジュリーから電話が入る。彼女にも雪の情報が入ったようだ。
明日、飛行場までカニーという女性が送ってくれることになった。しかし、私のフライトが、シカゴ経由であることを知り、ジュリーは慌て始める。
今から、シカゴの天気予報を調べるそうだ。やはり、あの穏やかな日々が続いた1週間にはどうも落とし穴が待ち受けていたようである。
再びジュリーから電話が入る。今度は昼食のお誘い。
レン・カニー・ラルフと一緒にチャイニーズビュフェに行く。このお店は最初のころから比べると、だんだん客が付き始めている。中華料理、日本料理、デザートと品数が多く、バイキング形式であるためいくら食べても7ドル50セント。これならば、人は来る。
4人でワイワイ楽しく話しているうち、ケンタッキー東部アパラチア山脈の環境問題へ話題が飛ぶと一挙にシリアスになる。
以前この日記にも書いたが、石炭採掘のため、世界で最も古い山の山頂を爆破し、谷底へ落とし平地にしている。
これは、神への冒涜としか言いようがない。また電力エネルギーの50%以上を石炭燃焼にたよっているアメリカは、まるで自分の足を食べているタコ。
アパラチア山脈では、石炭の洗浄で汚染された水での被害だけでなく、山がなくなったため、洪水の被害がひどいそうだ。
4人は私が帰国する前にこのようなアメリカの現状を伝えたかったのだと思う。
食事から帰り、私の作品をどのような形で残すのか気になり始めたので、ジュリーに聞いてみることにした。すると、ジュリーも気になっていたらしく、レンと相談することになった。
まだ、雪は降っていないので我々は外で話し合うことにした。
我々は教育センターの下にある松林まで歩いていく。松林の中に入って、レンが“ほら、ここは子供たちが大好きな場所なの。ここにヒロムの作品を置くたらどうかしら?”と提案。
大きな枝が垂れ下がり、一見暗い松林のように見えるものの、中に入ると明るい大きな祠(ほこら)になっている。枝に長い流木を引っかけて家のような空間もできそうである。
ジュリーはここに、Bernheim Shineと言うサインと作品の写真を表示し、子供たちが自由に制作する場にしようと言う。私も2人の案に賛成。
続いて、ジュリーが別の場所を案内してくれる。
そこは、ヨーッロッパから持ち込んだ人工的な芝を、この大陸に自生していた植物に植えかえている丘の中心部。
見晴らしが素晴らしく心地良い。
きっとイヤシロチに違いない。ここならば場の力があり、モニュメント風Bernheim Shineが出来そうである。
この場所での展示に関してはいずれ提案書を出し、何とか実現したいと思う。
3人でゆっくり歩きバーンハイム最後の一日を楽しんだ。まだ雪は降っていない。
実は、私にはやり残した仕事がまだあり、ゆっくりしていられないのである。一つは写真撮影。
真っ暗な空間に浮かび上がった積み木群だけの写真を撮ってみたい。
ギャラリーは、私の作った積み木群と参加者の作品が共存している。そのため、今まで撮った写真は近景の写真が多く、遠景の積み木群だけの写真はない。
そのため、参加者の作品を崩して片づけなければならない。1時間近くかけて撮影できるようにした。ところが撮影してくれるラルフは急ぎの仕事があるらしく、急遽、私が撮影することになった。ラルフに高性能のデジカメの使用方法を聞き、もう少し暗くなるのを待つことにした。
その間に、もう一つの仕事をする。
それは、バーンハイム従業員の名前の漢字名。たとえば、ラルフは螺留夫。デイブは、出伊武(イタリアからの移民のため)。これらの楷書と、左手書きの書を2枚ずつ41名分。合計82枚書き、プレゼントすることにしている。
これは、楽しい作業のため、あっという間に時間が過ぎて行き、気が付くと5時前。
“しまった!お土産を買っていない!”大慌てでジュリーの事務室まで行き、売店が開いているかどうか、電話をしてもらったが、もうすでに閉店。この天候では致し方ない。
バーンハイムの売店は、今まで見てきた売り場の中で、最も質の良いワクワクするところであった。
楽しく遊びながら環境について学ぶことが出来る品がたくさんある。これを買うのが楽しみであったのに、本当に残念!
仕方なく、積み木群の写真撮影をすることに決めた。
ところが、デジカメの電源をつけたまま三脚に乗せていたため、バッテリーが上がっていた!換えのバッテリーがどこにあるのか分からず、これまた断念!!
外は冷たい雨が降って来はじめた。雨足は強くなってきている。こうなったら、レインジャーのロニーを呼ぶしかない。もうあきらめて家に帰るだけである。
明日の出発に不安を感じながらロニーの車に乗る。
別れ際“シカゴまでの旅を楽しんで!”という彼の言葉が車のルームライトに重たく響き渡った。
果たして、明日は冬到来なのだろうか?
冬到来
今日一日で、この部屋ともお別れ。
“立つ鳥跡を濁さず”の思いで、掃除をしていると、あと2時間ほどで冬になり、夜には雪が降るという情報がラジオから流れてくる。
ケンタッキーには、ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)という公共放送が3局あり、クラッシック専門、現代音楽専門、それにニュース専門とそれぞれ分担された局で流されている。
私は、もっぱらクラッシックを聴いている。その中でクラシックチョイスという人気番組の女性案内役が、“残り2時間の穏やかさを楽しみましょう。”と笑いながらお喋りをしている。
とんでもない!私は、明日11時20分シカゴ経由でニューヨークに行く。
シカゴといえば、その寒さは,いわずと知れている。こまった! そんな折り、ジュリーから電話が入る。彼女にも雪の情報が入ったようだ。
明日、飛行場までカニーという女性が送ってくれることになった。しかし、私のフライトが、シカゴ経由であることを知り、ジュリーは慌て始める。
今から、シカゴの天気予報を調べるそうだ。やはり、あの穏やかな日々が続いた1週間にはどうも落とし穴が待ち受けていたようである。
再びジュリーから電話が入る。今度は昼食のお誘い。
レン・カニー・ラルフと一緒にチャイニーズビュフェに行く。このお店は最初のころから比べると、だんだん客が付き始めている。中華料理、日本料理、デザートと品数が多く、バイキング形式であるためいくら食べても7ドル50セント。これならば、人は来る。
4人でワイワイ楽しく話しているうち、ケンタッキー東部アパラチア山脈の環境問題へ話題が飛ぶと一挙にシリアスになる。
以前この日記にも書いたが、石炭採掘のため、世界で最も古い山の山頂を爆破し、谷底へ落とし平地にしている。
これは、神への冒涜としか言いようがない。また電力エネルギーの50%以上を石炭燃焼にたよっているアメリカは、まるで自分の足を食べているタコ。
アパラチア山脈では、石炭の洗浄で汚染された水での被害だけでなく、山がなくなったため、洪水の被害がひどいそうだ。
4人は私が帰国する前にこのようなアメリカの現状を伝えたかったのだと思う。
食事から帰り、私の作品をどのような形で残すのか気になり始めたので、ジュリーに聞いてみることにした。すると、ジュリーも気になっていたらしく、レンと相談することになった。
まだ、雪は降っていないので我々は外で話し合うことにした。
我々は教育センターの下にある松林まで歩いていく。松林の中に入って、レンが“ほら、ここは子供たちが大好きな場所なの。ここにヒロムの作品を置くたらどうかしら?”と提案。
大きな枝が垂れ下がり、一見暗い松林のように見えるものの、中に入ると明るい大きな祠(ほこら)になっている。枝に長い流木を引っかけて家のような空間もできそうである。
ジュリーはここに、Bernheim Shineと言うサインと作品の写真を表示し、子供たちが自由に制作する場にしようと言う。私も2人の案に賛成。
続いて、ジュリーが別の場所を案内してくれる。
そこは、ヨーッロッパから持ち込んだ人工的な芝を、この大陸に自生していた植物に植えかえている丘の中心部。
見晴らしが素晴らしく心地良い。
きっとイヤシロチに違いない。ここならば場の力があり、モニュメント風Bernheim Shineが出来そうである。
この場所での展示に関してはいずれ提案書を出し、何とか実現したいと思う。
3人でゆっくり歩きバーンハイム最後の一日を楽しんだ。まだ雪は降っていない。
実は、私にはやり残した仕事がまだあり、ゆっくりしていられないのである。一つは写真撮影。
真っ暗な空間に浮かび上がった積み木群だけの写真を撮ってみたい。
ギャラリーは、私の作った積み木群と参加者の作品が共存している。そのため、今まで撮った写真は近景の写真が多く、遠景の積み木群だけの写真はない。
そのため、参加者の作品を崩して片づけなければならない。1時間近くかけて撮影できるようにした。ところが撮影してくれるラルフは急ぎの仕事があるらしく、急遽、私が撮影することになった。ラルフに高性能のデジカメの使用方法を聞き、もう少し暗くなるのを待つことにした。
その間に、もう一つの仕事をする。
それは、バーンハイム従業員の名前の漢字名。たとえば、ラルフは螺留夫。デイブは、出伊武(イタリアからの移民のため)。これらの楷書と、左手書きの書を2枚ずつ41名分。合計82枚書き、プレゼントすることにしている。
これは、楽しい作業のため、あっという間に時間が過ぎて行き、気が付くと5時前。
“しまった!お土産を買っていない!”大慌てでジュリーの事務室まで行き、売店が開いているかどうか、電話をしてもらったが、もうすでに閉店。この天候では致し方ない。
バーンハイムの売店は、今まで見てきた売り場の中で、最も質の良いワクワクするところであった。
楽しく遊びながら環境について学ぶことが出来る品がたくさんある。これを買うのが楽しみであったのに、本当に残念!
仕方なく、積み木群の写真撮影をすることに決めた。
ところが、デジカメの電源をつけたまま三脚に乗せていたため、バッテリーが上がっていた!換えのバッテリーがどこにあるのか分からず、これまた断念!!
外は冷たい雨が降って来はじめた。雨足は強くなってきている。こうなったら、レインジャーのロニーを呼ぶしかない。もうあきらめて家に帰るだけである。
明日の出発に不安を感じながらロニーの車に乗る。
別れ際“シカゴまでの旅を楽しんで!”という彼の言葉が車のルームライトに重たく響き渡った。
果たして、明日は冬到来なのだろうか?
11月29日の日記
‘06 11月29日
生体の歪みを正す
普段はあまり話をしないマイクとスラッガー博物館へ行くことになった。マイクは明日が季刊誌“Forest Echo”の編集締め切り日の忙しい時にも拘わらず、有難いことだ。
マイクは生物学を専攻しながら、バーンハイムではマーケテイングの主任をしている。また10年程まえには、奨学金をもらい、3ヶ月ハンガリーで研究生活をしたこともあり、また音楽家でもある。
ルイビルの中心街に車を置き、スラッガー博物館まで歩く。
もともとここは、バットの製造工場。そのため、博物館とはいえ、工場見学がメインになる。機械の音でうるさい上、案内役の男性が訛りのある英語のため聞き取れにくい。
そのため私は、製造過程は無視して、ケングリフィーJr、ジオンビ、ポサダ、ジーターら有名選手のバットの感触、重さなどを心ゆくまで楽しむことにした。
ケングリフィーJrとジーターのバットは軽く、またジーターのバットは短く感じた。ジオンビのバットは先端と中央部の大きさが余り変わらずグリップの部分は細かった。ポサダのバットは非常に重く感じた。
また、クレメンスやランデイージョンソンの球速を体験するコーナーがあった。
これは、最近のバッテイングセンターのように、マウンドに等身大のクレメンスの映像が現れ、投げた瞬間ボールが90マイルのスピードで出てくるようになっている。90マイルは144キロ。このスピードならば日本のプロ野球選手でも投げられる早さ。しかし、そのスピードの凄いこと!ほとんど神業に近い。
これを、イチロー選手はいとも簡単に打ち返すのだから、もう神様。プロ野球選手が選ばれた人々の集団であることを改めて実感できた。
最後には、マイクからのプレゼントとして私の名前入りバットを戴いた。ありがとう、マイク!
スラッガー博物館を出て、知り合いのクリスに会う。マイクは自宅に帰り、クリスの家でゆっくりすることにした。
彼女は60才くらいで小学校の体育の教師をしている。私がDOSS HIGH SCHOOLで行った授業での生徒の態度に関して話をすると、高校はまだいい方で、中学の乱れ方はそれ以上だという。あれ以上ということは授業にならない。とんでもないことだ。
アメリカには、若く新しいものが良く、年老いた古いものは良くないという風潮がある。
そのため、年輩を尊敬するということがあまりない。年齢差がかなりあっても対等につき合おうとする。
この風潮が人生で一番不安定な中学校時代に、極端な形で出てくるのだろうと思う。教師を教師と思わず友人あるいは敵と見なすような傾向になるのではないか。これは、最近の日本でも見られる。何とかしなければならない。
ペリー提督が黒船で来日して以来、日本はまだアメリカの呪縛から逃れられずにいる。早く拭い去り、日本独自の道を指し示し、歩んでいかなくてはならない、とこちらに来てつくづく感じる。
さて、スペイン・マジョルカ島の話、今日が最終回。
橋本敬三先生の生体の歪みを正す(創元社)に次ぎのような一節がある。
“校舎の軒下でもいいから幅1メートル、長さ100メートルぐらいの砕石を敷き詰めたゴロゴロの道路をつくればよろしい。毎日裸足でここを往復させるのである。子供は足の裏が痛いからキクキク体をくねらせながら歩く。これを反復しているうちに運動系(骨格や筋肉)の異常が調整されてくる。それにつれて体が丈夫になってくるのである。”
これは、子供を対象とした体の歪みを矯正する方法である。
この教えを忠実にワークショップで実践しその成果が分かるようにしようと考えた。
そのため、ワークショップの初日と最終日に立位と仰臥位の骨盤のズレ(左右の足差)を撮影しその比較をすることにした。結果は後で言うことにして、その様子を書いてみよう。
初日は、中庭のコンクリート床に私が道を作る。
素材は積み木、流木、大きな石。これらを、並べ円周100メートル位の道にする。
3〜4周ほど歩き、10分間昼寝(仰臥位で休む)。これを体感することで私の意図することをある程度子供たちの身体が理解したと思う。
2,3日目は子供たちが道を作る。
日差しが強いため、植木や、流木を柱にして黒い風通しのよいネット状の布で日陰を作る。その上にパームツリーの葉を乗せる。大きな住処(すみか)のようになり、子供たちはそれだけで喜ぶ。
その中に積み木、流木、小石、砂、大きな石で道を作る。この住処だけでなく中庭全体に円周100メートル位の道を作る。日陰、日向と変化に富んだ空間になる。
この空間を常設し、毎日6周歩きその後10分の昼寝。これを2週間続けた。小石を敷き詰めた道を歩くと、ホントに痛い。子供たちは出来るだけ避けて通ろうとするが、しっかりと監視。
また、積み木を使って様々な遊びを試みた。
例えば、2人1組になって、高く積み上げる競争。これは非常に単純であるが、なかなか難しく、集中力と冷静さが必要になってくる。
あるいは、1人が床に仰臥位の体勢になり、もう1人が仰臥位になった身体の上に2個以上の積み木を積み上げる競争。
呼吸で身体が上下する(特に胸郭、腹部)ので、3個積み上げることは困難。様々な部位に2個積み上げた木が並んでいき、身体が積み木の森になる。この競技は、呼吸を非常に意識するため、自然と深い呼吸をするようになっていく。
また4人1組になり、3個以上の積み木を積んだまま手渡し、その数を競い合うこともした。脇をしめ身体の中心を使わないと不安定になり積み木が倒れる。この競技では身体の重心安定、移動の基礎を学ぶことになる。
最後に2人1組で30cm平方の床に何個積み上げることができるかの競争。これは意外性がありだれが勝つか分からない。但し、集中力は必要。
以上のように、競争心を煽りながら楽しく遊び、なおかつ身体の歪みを正す実践を試みた。
果たしてその結果はどのようになったのか?
結論から言うと、驚くほど効果があった。参加した42名全員に骨盤のズレの改善が見られた。その中でも、著しい変化が見受けられた数名の写真を掲載しようと思う。
また、好転反応と思われる結果のでた子もいた。
そして、最終日のパーテイーに参加したある母親が、私のところへやって来て、
“娘の様子が随分変わって行くので驚きました。特に、精神的に安定しゆったりと過ごせるようになりました。”という言葉を戴いたとき、嬉しさと共に自然法則の崇高さ、それをさらりと指摘される橋本敬三先生の偉大さを改めて実感できた。
このワークショップの成果を踏まえ、バーンハイム森林公園では木を積み上げるだけで、身体の歪みが取れると言う仮説を実証しようといたが、それは叶わなかった。
私の造形家としての血が騒ぎ、操体指導師としての活動を棚上げし、空間作りに徹してしまったからである。
しかし、“身体の歪みを取る造形活動”という治癒的要素のある分野は必要になってくる。今後の方向性をいま一度見つめ直し、展開発展していきたいと思っている。
生体の歪みを正す
普段はあまり話をしないマイクとスラッガー博物館へ行くことになった。マイクは明日が季刊誌“Forest Echo”の編集締め切り日の忙しい時にも拘わらず、有難いことだ。
マイクは生物学を専攻しながら、バーンハイムではマーケテイングの主任をしている。また10年程まえには、奨学金をもらい、3ヶ月ハンガリーで研究生活をしたこともあり、また音楽家でもある。
ルイビルの中心街に車を置き、スラッガー博物館まで歩く。
もともとここは、バットの製造工場。そのため、博物館とはいえ、工場見学がメインになる。機械の音でうるさい上、案内役の男性が訛りのある英語のため聞き取れにくい。
そのため私は、製造過程は無視して、ケングリフィーJr、ジオンビ、ポサダ、ジーターら有名選手のバットの感触、重さなどを心ゆくまで楽しむことにした。
ケングリフィーJrとジーターのバットは軽く、またジーターのバットは短く感じた。ジオンビのバットは先端と中央部の大きさが余り変わらずグリップの部分は細かった。ポサダのバットは非常に重く感じた。
また、クレメンスやランデイージョンソンの球速を体験するコーナーがあった。
これは、最近のバッテイングセンターのように、マウンドに等身大のクレメンスの映像が現れ、投げた瞬間ボールが90マイルのスピードで出てくるようになっている。90マイルは144キロ。このスピードならば日本のプロ野球選手でも投げられる早さ。しかし、そのスピードの凄いこと!ほとんど神業に近い。
これを、イチロー選手はいとも簡単に打ち返すのだから、もう神様。プロ野球選手が選ばれた人々の集団であることを改めて実感できた。
最後には、マイクからのプレゼントとして私の名前入りバットを戴いた。ありがとう、マイク!
スラッガー博物館を出て、知り合いのクリスに会う。マイクは自宅に帰り、クリスの家でゆっくりすることにした。
彼女は60才くらいで小学校の体育の教師をしている。私がDOSS HIGH SCHOOLで行った授業での生徒の態度に関して話をすると、高校はまだいい方で、中学の乱れ方はそれ以上だという。あれ以上ということは授業にならない。とんでもないことだ。
アメリカには、若く新しいものが良く、年老いた古いものは良くないという風潮がある。
そのため、年輩を尊敬するということがあまりない。年齢差がかなりあっても対等につき合おうとする。
この風潮が人生で一番不安定な中学校時代に、極端な形で出てくるのだろうと思う。教師を教師と思わず友人あるいは敵と見なすような傾向になるのではないか。これは、最近の日本でも見られる。何とかしなければならない。
ペリー提督が黒船で来日して以来、日本はまだアメリカの呪縛から逃れられずにいる。早く拭い去り、日本独自の道を指し示し、歩んでいかなくてはならない、とこちらに来てつくづく感じる。
さて、スペイン・マジョルカ島の話、今日が最終回。
橋本敬三先生の生体の歪みを正す(創元社)に次ぎのような一節がある。
“校舎の軒下でもいいから幅1メートル、長さ100メートルぐらいの砕石を敷き詰めたゴロゴロの道路をつくればよろしい。毎日裸足でここを往復させるのである。子供は足の裏が痛いからキクキク体をくねらせながら歩く。これを反復しているうちに運動系(骨格や筋肉)の異常が調整されてくる。それにつれて体が丈夫になってくるのである。”
これは、子供を対象とした体の歪みを矯正する方法である。
この教えを忠実にワークショップで実践しその成果が分かるようにしようと考えた。
そのため、ワークショップの初日と最終日に立位と仰臥位の骨盤のズレ(左右の足差)を撮影しその比較をすることにした。結果は後で言うことにして、その様子を書いてみよう。
初日は、中庭のコンクリート床に私が道を作る。
素材は積み木、流木、大きな石。これらを、並べ円周100メートル位の道にする。
3〜4周ほど歩き、10分間昼寝(仰臥位で休む)。これを体感することで私の意図することをある程度子供たちの身体が理解したと思う。
2,3日目は子供たちが道を作る。
日差しが強いため、植木や、流木を柱にして黒い風通しのよいネット状の布で日陰を作る。その上にパームツリーの葉を乗せる。大きな住処(すみか)のようになり、子供たちはそれだけで喜ぶ。
その中に積み木、流木、小石、砂、大きな石で道を作る。この住処だけでなく中庭全体に円周100メートル位の道を作る。日陰、日向と変化に富んだ空間になる。
この空間を常設し、毎日6周歩きその後10分の昼寝。これを2週間続けた。小石を敷き詰めた道を歩くと、ホントに痛い。子供たちは出来るだけ避けて通ろうとするが、しっかりと監視。
また、積み木を使って様々な遊びを試みた。
例えば、2人1組になって、高く積み上げる競争。これは非常に単純であるが、なかなか難しく、集中力と冷静さが必要になってくる。
あるいは、1人が床に仰臥位の体勢になり、もう1人が仰臥位になった身体の上に2個以上の積み木を積み上げる競争。
呼吸で身体が上下する(特に胸郭、腹部)ので、3個積み上げることは困難。様々な部位に2個積み上げた木が並んでいき、身体が積み木の森になる。この競技は、呼吸を非常に意識するため、自然と深い呼吸をするようになっていく。
また4人1組になり、3個以上の積み木を積んだまま手渡し、その数を競い合うこともした。脇をしめ身体の中心を使わないと不安定になり積み木が倒れる。この競技では身体の重心安定、移動の基礎を学ぶことになる。
最後に2人1組で30cm平方の床に何個積み上げることができるかの競争。これは意外性がありだれが勝つか分からない。但し、集中力は必要。
以上のように、競争心を煽りながら楽しく遊び、なおかつ身体の歪みを正す実践を試みた。
果たしてその結果はどのようになったのか?
結論から言うと、驚くほど効果があった。参加した42名全員に骨盤のズレの改善が見られた。その中でも、著しい変化が見受けられた数名の写真を掲載しようと思う。
また、好転反応と思われる結果のでた子もいた。
そして、最終日のパーテイーに参加したある母親が、私のところへやって来て、
“娘の様子が随分変わって行くので驚きました。特に、精神的に安定しゆったりと過ごせるようになりました。”という言葉を戴いたとき、嬉しさと共に自然法則の崇高さ、それをさらりと指摘される橋本敬三先生の偉大さを改めて実感できた。
このワークショップの成果を踏まえ、バーンハイム森林公園では木を積み上げるだけで、身体の歪みが取れると言う仮説を実証しようといたが、それは叶わなかった。
私の造形家としての血が騒ぎ、操体指導師としての活動を棚上げし、空間作りに徹してしまったからである。
しかし、“身体の歪みを取る造形活動”という治癒的要素のある分野は必要になってくる。今後の方向性をいま一度見つめ直し、展開発展していきたいと思っている。
11月28日の日記
‘06 11月28日
インタビュー
午前11時からインタビューがあるため、10時30分頃ギャラリーに行くと、クロード、レン、ジョー(全員教育部門関係者)が立ち話をしている。近づいていくと会話が聞き取れ始めるが、クロードは引き上げるところであった。
残った二人は、どうも私の仕事に関して話をしているようだ。会話の輪に入る。
“これ(私の提示した空間)を、一回限りで終わらすのは、勿体ない。バーンハイムの活動にぴったりだから、様々な場所にこれを設置し、バーンハイムに来れば、これで遊べるという様にすべきだよ。ここには、材料は沢山あり、いつでも供給できるのだから。”とジョー。
“その通り。私が会議で忙しかったので、そのような展開を考えられなかったけれど、そうすべきだと思う。これは、今の子供たちに必要なこと。私もここでゆっくり作りたいわ。”とレン。
有難いことである。今後もバーンハイムと連絡を取り合い、どのような展開になっていくのか聞いてみようと思う。また、バーンハイムの活動は様々な分野のプロ集合体が、森林を舞台に環境教育にたずさわっている。多岐多様に渡った奥の深い仕事。私は、やっとお付き合いが始まったばかりという感じである。謙虚に学んでいきたいと思う。
11時前に以前に会ったことのある40才くらいの女性が現れる。
彼女がヴィデオアーテイストで、インタビューの撮影をしてくれることになっている。
クロードが今回の企画の責任者。打ち合わせらしきものがあると思っていたが、特になし。
クロードは、私にバーンハイムで一番好きな場所を尋ねてくる。とっさに高台にある教育センターと答える。そこで、教育センターの玄関前にある籐でできたベンチに座ることになり、いきなりインタビューが始まる。
ところが、不思議なことに何を答えたのか余り覚えていない。ただ、立ち会っているクロード、女性ヴィデオアーテイスト、ジュリーの目が私の挙動を食い入るように見ていたので、非常に興味を示していることは分かった。
また驚いたことに、質問に対し的確な答えがすらすらと出てくる。英語がそれほど障害になっていない。これは、日記で自分の考えを文章にしていたからだと思う。約3ヶ月自分と向き合い続け、そのつど感じ、発見したことを文字で残すことが自分の血肉となっているのが良く分かった。それさえ出来ていれば、知っている英単語で文章を構築すれば良いだけのこと。
ただ最後の質問に対し、今ならばもう少し深く話が出来るという、心残りはある。
その質問はジュリーからのもので、“あなたの作品に於ける、時間と形に関して説明してください。”という非常に的を射た少々難解なもの。
それに対し、木の成長を例えに出し、木の最終結果であるドングリが地面に落ち、芽を出し木が再生してゆく。私の作品はこのプロセスのようなもので、時間と形が変化し、境界線が曖昧であると説明した。
これを、私の作品に於ける時間と形はアニミズムそのものであると答えた方がより的確であったと思う。たとえば、私がトマトを食べたとする。そして、私の胃の中に入ったトマトはもうトマトではない?いやタネがあるからトマト?いやトマトはもう私?形とは非常に曖昧なものである。古代人はそのことが分かっていた。私はトマトのエネルギー(いや古代人はエネルギーとは言わず、精霊だと感じた)を戴き共存したと考えるべきである。
つまり、精霊は時間と共にあらゆる生き物に形を変えていくということ。私の作品のように、土に帰一してゆく倒木の精霊と人の精霊が交わり様々な形が現れるのは、“アニミズムの象徴”とでも言えばよかったと思っている。
また、バーンハイム森林公園でもっとも好きな場所を聞かれたので、小高い丘の上にあるこの教育センター。しかも、このギャラリーであると答えた。
その時に、イヤシロチの話をした。山の頂点が重なりあって見える所に立った時、その180度反対の場所にも山の頂点が重なりあって見える時がある。その頂点を結ぶ線を高位線といい、もしその位置から90度の所にも山の頂点が重なりあって見える所があり、その180度反対側でも山の頂点が重なりあって見えたとするとその立っている場所がイヤシロチである。つまり、高位線と高位線が90度に交わる地点のことをいう。
これを言葉だけでなく手刀を切って説明した。その後、別の場所へ撮影のため移動中に、ヴィデオアーテイストの彼女がわざわざ私の所へ来て、“あなたの、手で空を切る所作、見ていてとても気持が良かったの!”とニコニコしながら言う。
私は少しこわばり、橋本敬三先生の信じられないような御言霊の話を思い出してしまった。
この話を信じない方はそれで結構。ただ内容だけを簡単に説明しようと思う。
私の操体師匠である三浦寛先生の生徒で、開業されている方の仕事場での出来事。
その方の患者さんが突然、“この写真から(橋本敬三先生の写真)声が聞こえる。”と言い始める。もちろん周囲の人には聞こえない。そして、患者さんは橋本先生のことは一切知らない。しかもその内容がとても高尚。
“医師は自然から来て その下僕であり主人ではなく
自然の意志に従い範とする 日々精進に対し報いが具現され
竜は糸のように鋭く射す しかし竜は時を超えている
思念し竜を回転せしめ 痛みに留まるように角度を与えなさい
留まるは空間のみ 、、、“
と続いて行くのであるがその中に
“高みとは東西南北の中心点 それは横たわる十字架である
空をきる手刀は線をえがき 一時の通過となる“
という一節がある。
この場合の高みとはイヤシロチのことだと思う。教育センターのある高台の後ろ側には、やはり相似形の山がそびえていた。その山頂を結ぶ線に立ち、再び手刀を切り説明をしている私がいた。
“何と言うことだ、橋本敬三先生がここまで来られている!”と思った。
夕方6時頃レンの家で食事に招待される。レンは56才の植物学者。そして、植物、昆虫の羽等を素材にした妖精のような小さな作品をつくる芸術家でもある。庭では野菜を作り古い家屋をセンスよく改築し彼女の作品が至るところに飾ってある。
ワインを飲みながら1970年代の曲を聴き、彼女の美味しい手料理に舌鼓。こちらへ来て初めてゆっくりと夕食を楽しんだ。
しばらくして、“この妖精はダンスをするのよ!”とレンが言う。
棚に高さ5cmから15cm位までの妖精を10人程並べる。部屋を暗くして、ロウソク2本に火を灯す。1つは私、1つはレンが持ち
音楽に合わせてロウソクを踊らせると、小さな妖精の影が大きくなったり、斜めになったり、ゆっくり動いたり、早く動いたり。ホントにダンスをする。見事!!
私がArtist in Residenceでこちらに滞在しているのが恥ずかしくなる。私などより、よっぽど芸術的な生活を送っている。ジョージア・オキーフを彷彿させる彼女の人生はこれからが旬のようだ。
インタビュー
午前11時からインタビューがあるため、10時30分頃ギャラリーに行くと、クロード、レン、ジョー(全員教育部門関係者)が立ち話をしている。近づいていくと会話が聞き取れ始めるが、クロードは引き上げるところであった。
残った二人は、どうも私の仕事に関して話をしているようだ。会話の輪に入る。
“これ(私の提示した空間)を、一回限りで終わらすのは、勿体ない。バーンハイムの活動にぴったりだから、様々な場所にこれを設置し、バーンハイムに来れば、これで遊べるという様にすべきだよ。ここには、材料は沢山あり、いつでも供給できるのだから。”とジョー。
“その通り。私が会議で忙しかったので、そのような展開を考えられなかったけれど、そうすべきだと思う。これは、今の子供たちに必要なこと。私もここでゆっくり作りたいわ。”とレン。
有難いことである。今後もバーンハイムと連絡を取り合い、どのような展開になっていくのか聞いてみようと思う。また、バーンハイムの活動は様々な分野のプロ集合体が、森林を舞台に環境教育にたずさわっている。多岐多様に渡った奥の深い仕事。私は、やっとお付き合いが始まったばかりという感じである。謙虚に学んでいきたいと思う。
11時前に以前に会ったことのある40才くらいの女性が現れる。
彼女がヴィデオアーテイストで、インタビューの撮影をしてくれることになっている。
クロードが今回の企画の責任者。打ち合わせらしきものがあると思っていたが、特になし。
クロードは、私にバーンハイムで一番好きな場所を尋ねてくる。とっさに高台にある教育センターと答える。そこで、教育センターの玄関前にある籐でできたベンチに座ることになり、いきなりインタビューが始まる。
ところが、不思議なことに何を答えたのか余り覚えていない。ただ、立ち会っているクロード、女性ヴィデオアーテイスト、ジュリーの目が私の挙動を食い入るように見ていたので、非常に興味を示していることは分かった。
また驚いたことに、質問に対し的確な答えがすらすらと出てくる。英語がそれほど障害になっていない。これは、日記で自分の考えを文章にしていたからだと思う。約3ヶ月自分と向き合い続け、そのつど感じ、発見したことを文字で残すことが自分の血肉となっているのが良く分かった。それさえ出来ていれば、知っている英単語で文章を構築すれば良いだけのこと。
ただ最後の質問に対し、今ならばもう少し深く話が出来るという、心残りはある。
その質問はジュリーからのもので、“あなたの作品に於ける、時間と形に関して説明してください。”という非常に的を射た少々難解なもの。
それに対し、木の成長を例えに出し、木の最終結果であるドングリが地面に落ち、芽を出し木が再生してゆく。私の作品はこのプロセスのようなもので、時間と形が変化し、境界線が曖昧であると説明した。
これを、私の作品に於ける時間と形はアニミズムそのものであると答えた方がより的確であったと思う。たとえば、私がトマトを食べたとする。そして、私の胃の中に入ったトマトはもうトマトではない?いやタネがあるからトマト?いやトマトはもう私?形とは非常に曖昧なものである。古代人はそのことが分かっていた。私はトマトのエネルギー(いや古代人はエネルギーとは言わず、精霊だと感じた)を戴き共存したと考えるべきである。
つまり、精霊は時間と共にあらゆる生き物に形を変えていくということ。私の作品のように、土に帰一してゆく倒木の精霊と人の精霊が交わり様々な形が現れるのは、“アニミズムの象徴”とでも言えばよかったと思っている。
また、バーンハイム森林公園でもっとも好きな場所を聞かれたので、小高い丘の上にあるこの教育センター。しかも、このギャラリーであると答えた。
その時に、イヤシロチの話をした。山の頂点が重なりあって見える所に立った時、その180度反対の場所にも山の頂点が重なりあって見える時がある。その頂点を結ぶ線を高位線といい、もしその位置から90度の所にも山の頂点が重なりあって見える所があり、その180度反対側でも山の頂点が重なりあって見えたとするとその立っている場所がイヤシロチである。つまり、高位線と高位線が90度に交わる地点のことをいう。
これを言葉だけでなく手刀を切って説明した。その後、別の場所へ撮影のため移動中に、ヴィデオアーテイストの彼女がわざわざ私の所へ来て、“あなたの、手で空を切る所作、見ていてとても気持が良かったの!”とニコニコしながら言う。
私は少しこわばり、橋本敬三先生の信じられないような御言霊の話を思い出してしまった。
この話を信じない方はそれで結構。ただ内容だけを簡単に説明しようと思う。
私の操体師匠である三浦寛先生の生徒で、開業されている方の仕事場での出来事。
その方の患者さんが突然、“この写真から(橋本敬三先生の写真)声が聞こえる。”と言い始める。もちろん周囲の人には聞こえない。そして、患者さんは橋本先生のことは一切知らない。しかもその内容がとても高尚。
“医師は自然から来て その下僕であり主人ではなく
自然の意志に従い範とする 日々精進に対し報いが具現され
竜は糸のように鋭く射す しかし竜は時を超えている
思念し竜を回転せしめ 痛みに留まるように角度を与えなさい
留まるは空間のみ 、、、“
と続いて行くのであるがその中に
“高みとは東西南北の中心点 それは横たわる十字架である
空をきる手刀は線をえがき 一時の通過となる“
という一節がある。
この場合の高みとはイヤシロチのことだと思う。教育センターのある高台の後ろ側には、やはり相似形の山がそびえていた。その山頂を結ぶ線に立ち、再び手刀を切り説明をしている私がいた。
“何と言うことだ、橋本敬三先生がここまで来られている!”と思った。
夕方6時頃レンの家で食事に招待される。レンは56才の植物学者。そして、植物、昆虫の羽等を素材にした妖精のような小さな作品をつくる芸術家でもある。庭では野菜を作り古い家屋をセンスよく改築し彼女の作品が至るところに飾ってある。
ワインを飲みながら1970年代の曲を聴き、彼女の美味しい手料理に舌鼓。こちらへ来て初めてゆっくりと夕食を楽しんだ。
しばらくして、“この妖精はダンスをするのよ!”とレンが言う。
棚に高さ5cmから15cm位までの妖精を10人程並べる。部屋を暗くして、ロウソク2本に火を灯す。1つは私、1つはレンが持ち
音楽に合わせてロウソクを踊らせると、小さな妖精の影が大きくなったり、斜めになったり、ゆっくり動いたり、早く動いたり。ホントにダンスをする。見事!!
私がArtist in Residenceでこちらに滞在しているのが恥ずかしくなる。私などより、よっぽど芸術的な生活を送っている。ジョージア・オキーフを彷彿させる彼女の人生はこれからが旬のようだ。
11月27日の日記
‘06 11月27日
ミロ絵
湖畔のスタジオの掃除を終え、家に帰ったのが午後6時。もうこの時間帯で随分暗くなる。この穏やかな日々がいつまで続くのだろう。寒さが訪れたとき、今度こそ冬が来そうだ。
早めに、話を暖かいスペイン・マジョルカ島に移そう!
さて、ミロ美術館でのドタバタが落ち着き、“空絵”の発想をおみやげに、日本に帰って来たのが12月半ば。
翌年の6月28日からのワークショップまで、半年ある。
早速、準備にかかった。
京都市内の北野天満宮と東寺では月に1度、ノミの市が開かれ古着、特に着物の大安売りに出くわすことがある。
ということは、これから半年の間に12回ほどチャンスがあり、そのうちに1回でも 当たれば儲けもの。大量に買いだめできる。
なぜ、“着物の大安売り”かというと、
ミロ美術館の4mX12mの窓をみた時、空に描く→巨大ネットに布を縛り付ける→布なら、着物の古着→古着なら、京都ノミの市。という考えが芋ずる式に出てきたからである。
北野天満宮に行き、1回目は様子を見る。
2回目、3回目と安いお店に出会い、段ボール箱4個ぎっしりと買い込んだ。値段はすっかり忘れてしまったが、安かった。それを船便でミロ美術館に送ることにした。
確か、春先に送り5月に着いたように思う。その間メールでやり取りを行い、この着物以外は全て現地調達ということになった。
そして、余裕を持って、ミロ美術館に乗り込んで行くことになったのである。
ところが、待ち受けていたのは、全く憎めないスペイン気質というか、マジョルカ島のおおらかさ。開き直ることほぼ毎日。日本の感覚を捨て去る挑戦の日々。
そのため、ワークショップが始まると同時に、日記が書けていない。それどころではなかった。ところが、様々な困難が今となっては、よい体験になっており、敢えて書く気になれない。また、記憶が随分薄れて来ているのも事実。
11月11日の日記:スペイン・マジョルカ島編(ツナ渡り)で当時の様子がある程度分かると思う。それを読んで戴ければ十分である。
何とか、4mX12mの大きな吹き抜けの窓に、2mX9mの黒いネットを張り付ける。なかなかこれだけで絵になる。当初予定していた、透明あるいは、白のネットよりはるかに見栄えが良いように思う。何とかなるものだ。
ネットを張ることによって、吹き抜ける風をより感じる。気持が良い。
最初にやったことはミロの絵を見に行くこと。美術館に入りゆっくりと作品を眺めてもらい。60cmX50cm程の絵の前に集合。
“さて、この絵は他の絵と全く違う描き方をしています。さてどこが違うのでしょう?”という質問をする。
様々な答えをするが、だれ一人として当てることができない。
実はこの絵、よく見るとミロが描いた横長の風景画を縦にし(多分、初期の頃描いたものだと思う)、その上から大胆な黒い線を使った絵を描いている。あまりにもぴったりと馴染んでいるため全く気付かないようである。
これで、風景(今回は空)に描くことも出来ると理解してもらう。 少し、理屈っぽい気もするが、ミロゆかりの作品にするには必要であったと思う。またこのような意味づけは、アシスタントをしてくれる、アルバ、ジョアントニーに対して行ったような気がする。彼らはやはり西洋人独特の理論から理解をしていく展開を好む。
美術館を出て、子供たちを2グループに分け、1グループは積み木作り、もう1グループは空絵作りとする。空絵作りのグループをパームツリーの木陰に集め、着物を見てもらう。それを、用意したはさみで切って行き、色別に分ける。
最初は、着物を切ることに抵抗を感じたり、あるいは、着て遊んだりとなかなか前に進まない。しかし、一度素材として見始めると瞬く間に端切れの山ができあがる。
準備ができると、ネットの前に集まり、静かに空絵を始める。
7−8種類の毛糸を使い、ネットにクモの巣のような線を自由に絡めながら描いていく。描くというより“空に淡く色づけをする”という表現の方が適切かもしれない。
これは、地道な作業であるが、大勢でやると楽しい。ある程度均一に描けると今度は、黒い布で大胆な線を描く。
子供たちには遠くから、全体を眺めバランスよく描くように指導する。
これは思った以上に迫力のある線になる。特に結び目が出来ると力強さが生まれてくる。
古来から使われている言葉、“ゆう”“ゆい”を実感できた。元々、“ゆう”は話す、つまり人と人とを結びつける、と言った意味あいがある。
そこから、昼間と夜を結びつける時間帯を夕(ゆう)。また、
神社で拝礼をする前と後に軽く会釈をすることを“ゆう”といい、神様と人とを結びつける所作を現す。
また、古来から伝わる茅葺き民家の葺き替え作業のことを結(ゆい)という。
葺き替えが必要になった家に、その地区の人々が茅を持ち出し、葺き替えの手伝いをする。それにより、個を助け、地域を助け連帯感を作り上げる。
まさにその“ゆう”“ゆい”が形になって現れた。まるで他人事のように感心してしまった。そして、“これは、ミロの絵だ!”と心底思った。また、作品の完成度からいってもこれだけで充分とも思ったが、それではワークショップの間が持たない。
その後、赤を中心とした色布も使い賑やかで楽しい作品を作り上げた。
制作途中で、ミロの陶芸作品のアシスタントをされていた方が来られる。そして、“これは、ミロの絵だ!”と私が感じた事をそのまま口にされ、しきりに感心してされ帰られた。
真っ青な空に力強い線で描かれた絵。これは美術館を訪れる人々を楽しませ、記念撮影をして帰る人が多くいた。
授賞式に参加しなくて良いというメールを受けとらなかったことで、うまれた作品。まさしく“ケガの功名”であり、またこれはミロの描いた風景画(ミロにとっての失敗作)が新たな作品に生まれ変わるプロセスを体現したものだと言える。
人生に於いて無駄なことなど一つもないことを教えてもらった作品・ワークショップである。
ミロ絵
湖畔のスタジオの掃除を終え、家に帰ったのが午後6時。もうこの時間帯で随分暗くなる。この穏やかな日々がいつまで続くのだろう。寒さが訪れたとき、今度こそ冬が来そうだ。
早めに、話を暖かいスペイン・マジョルカ島に移そう!
さて、ミロ美術館でのドタバタが落ち着き、“空絵”の発想をおみやげに、日本に帰って来たのが12月半ば。
翌年の6月28日からのワークショップまで、半年ある。
早速、準備にかかった。
京都市内の北野天満宮と東寺では月に1度、ノミの市が開かれ古着、特に着物の大安売りに出くわすことがある。
ということは、これから半年の間に12回ほどチャンスがあり、そのうちに1回でも 当たれば儲けもの。大量に買いだめできる。
なぜ、“着物の大安売り”かというと、
ミロ美術館の4mX12mの窓をみた時、空に描く→巨大ネットに布を縛り付ける→布なら、着物の古着→古着なら、京都ノミの市。という考えが芋ずる式に出てきたからである。
北野天満宮に行き、1回目は様子を見る。
2回目、3回目と安いお店に出会い、段ボール箱4個ぎっしりと買い込んだ。値段はすっかり忘れてしまったが、安かった。それを船便でミロ美術館に送ることにした。
確か、春先に送り5月に着いたように思う。その間メールでやり取りを行い、この着物以外は全て現地調達ということになった。
そして、余裕を持って、ミロ美術館に乗り込んで行くことになったのである。
ところが、待ち受けていたのは、全く憎めないスペイン気質というか、マジョルカ島のおおらかさ。開き直ることほぼ毎日。日本の感覚を捨て去る挑戦の日々。
そのため、ワークショップが始まると同時に、日記が書けていない。それどころではなかった。ところが、様々な困難が今となっては、よい体験になっており、敢えて書く気になれない。また、記憶が随分薄れて来ているのも事実。
11月11日の日記:スペイン・マジョルカ島編(ツナ渡り)で当時の様子がある程度分かると思う。それを読んで戴ければ十分である。
何とか、4mX12mの大きな吹き抜けの窓に、2mX9mの黒いネットを張り付ける。なかなかこれだけで絵になる。当初予定していた、透明あるいは、白のネットよりはるかに見栄えが良いように思う。何とかなるものだ。
ネットを張ることによって、吹き抜ける風をより感じる。気持が良い。
最初にやったことはミロの絵を見に行くこと。美術館に入りゆっくりと作品を眺めてもらい。60cmX50cm程の絵の前に集合。
“さて、この絵は他の絵と全く違う描き方をしています。さてどこが違うのでしょう?”という質問をする。
様々な答えをするが、だれ一人として当てることができない。
実はこの絵、よく見るとミロが描いた横長の風景画を縦にし(多分、初期の頃描いたものだと思う)、その上から大胆な黒い線を使った絵を描いている。あまりにもぴったりと馴染んでいるため全く気付かないようである。
これで、風景(今回は空)に描くことも出来ると理解してもらう。 少し、理屈っぽい気もするが、ミロゆかりの作品にするには必要であったと思う。またこのような意味づけは、アシスタントをしてくれる、アルバ、ジョアントニーに対して行ったような気がする。彼らはやはり西洋人独特の理論から理解をしていく展開を好む。
美術館を出て、子供たちを2グループに分け、1グループは積み木作り、もう1グループは空絵作りとする。空絵作りのグループをパームツリーの木陰に集め、着物を見てもらう。それを、用意したはさみで切って行き、色別に分ける。
最初は、着物を切ることに抵抗を感じたり、あるいは、着て遊んだりとなかなか前に進まない。しかし、一度素材として見始めると瞬く間に端切れの山ができあがる。
準備ができると、ネットの前に集まり、静かに空絵を始める。
7−8種類の毛糸を使い、ネットにクモの巣のような線を自由に絡めながら描いていく。描くというより“空に淡く色づけをする”という表現の方が適切かもしれない。
これは、地道な作業であるが、大勢でやると楽しい。ある程度均一に描けると今度は、黒い布で大胆な線を描く。
子供たちには遠くから、全体を眺めバランスよく描くように指導する。
これは思った以上に迫力のある線になる。特に結び目が出来ると力強さが生まれてくる。
古来から使われている言葉、“ゆう”“ゆい”を実感できた。元々、“ゆう”は話す、つまり人と人とを結びつける、と言った意味あいがある。
そこから、昼間と夜を結びつける時間帯を夕(ゆう)。また、
神社で拝礼をする前と後に軽く会釈をすることを“ゆう”といい、神様と人とを結びつける所作を現す。
また、古来から伝わる茅葺き民家の葺き替え作業のことを結(ゆい)という。
葺き替えが必要になった家に、その地区の人々が茅を持ち出し、葺き替えの手伝いをする。それにより、個を助け、地域を助け連帯感を作り上げる。
まさにその“ゆう”“ゆい”が形になって現れた。まるで他人事のように感心してしまった。そして、“これは、ミロの絵だ!”と心底思った。また、作品の完成度からいってもこれだけで充分とも思ったが、それではワークショップの間が持たない。
その後、赤を中心とした色布も使い賑やかで楽しい作品を作り上げた。
制作途中で、ミロの陶芸作品のアシスタントをされていた方が来られる。そして、“これは、ミロの絵だ!”と私が感じた事をそのまま口にされ、しきりに感心してされ帰られた。
真っ青な空に力強い線で描かれた絵。これは美術館を訪れる人々を楽しませ、記念撮影をして帰る人が多くいた。
授賞式に参加しなくて良いというメールを受けとらなかったことで、うまれた作品。まさしく“ケガの功名”であり、またこれはミロの描いた風景画(ミロにとっての失敗作)が新たな作品に生まれ変わるプロセスを体現したものだと言える。
人生に於いて無駄なことなど一つもないことを教えてもらった作品・ワークショップである。
2006年12月01日
11月25、26日の日記
午前11時20分出発予定ですが。こちらケンタッキーも雪になりそうです。
神様も、最後まで演出がお上手です。
最終日で、バタバタし、思い通りにいかないことばっかし!
もうあきらめました。
結局、お土産を買うことができず、また、納得のいく作品の写真はとれずじまい
でした。
まあ、100点満点の80点。よしとするしかありません。
明日からは、残念ながら日記の掲載ができません。12月10日くらいまでにスペイ
ン・マジョルカ島も含めたこの旅を終えたいと思います。
何とか、当初の目標の「竜頭竜尾」のブログができそうです。3か月のおつきあい、
本当に有難うございました。
では また!
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